タイトル:真相!三国志孔明伝

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開設日:2020年11月27日
更新日:2023年08月27日
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◇◇◇ 初めに ◇◇◇


現在の知られている三国志は,相当,創作されたものらしいです。 古い時代に教えてもらっていた三国志の方が正しい歴史に近いと考えます。 それらを紹介しましょう。 ただ,その説でさえ創作が含まれている可能性も否定できません。 全て偽情報だと思う人は,新作の物語だと思って読んで下さい。


◇◇◇ 第一章 孔明出爐 ~ 荊州を攻略せよ! ◇◇◇


ある時,黄巾賊の討伐が計画されました。 帝は「黄巾賊を倒した証として頭巾を持ってきたら褒美をやる」と言いました。 劉備は,馳せ参じて参加したのですが倒された黄巾賊の頭巾を集めて献上し,土地を貰いました。

ある日,張飛は,街で喧嘩になったのですが仲裁に入った関羽に負けて舎弟になった。 その後,劉備と遭った。 劉備は,関羽に「殴ってこい」と言ったらしく,その勇気の免じて関羽と張飛は,劉備の義兄弟になることを決心する。


「桃源郷の誓い」は,本当にあったかどうか分かっていません。


ある時,ある男が旗揚げした。 男は,優秀な軍師がいると有利になると教えてもらい,孔明を訪ねます。 男は孔明の爐を訪ねて「仲間にならないか?」と誘った。 孔明が「何故?」と問いかけると出直して考えることにした。 次に訪問した時に男は前の質問に対して「敵を蹴散らして進撃するのだ!」と答えた。 孔明は「それを何故?やるかだ!」と答えるとまた出直した。 次に訪問した時に男は「俺は,どう答えたらいいか?」と逆に質問した。 孔明は「中国を豊かにしたいとでも答えればいい」と答えた。 そしてなんとなく「仲間になってもいい」と思ったが軍師扱いという条件を付けた。 但し,軍勢は,かなり少なく「騙された」と思ったが「大きくしていけばいい」と思ったらしい。


孔明の出身地は,襄陽ではなく濮陽ではないか?という説があります。



孔明の元君主は,孔明に「兵士が少ない」と発言されたので領民を連れていくことにしました。 孔明は「兵士でないと数いても意味がないこと」を理解してました。 戦闘の邪魔になるので汝南周辺に定住させたと思われます。



孔明は,軍勢が少ない時期に戦い方を考えていた。 例えば別動隊に隠れてもらって後ろから本陣を急襲したり,狭い場所に誘い込んで火を付けたりといった計略を試していたらしい。 別動隊を呼ぶための指笛ができる人は,軍隊の指揮官にしていたらしい。

訂正:これは,後に孔明の軍に大きな打撃を与えた軍師という説があります。 軍師は,初めの頃は趙雲と同じ軍にいましたが吸収された時に他勢力に移動して敵として戦いました。 仲間になった後は,兵法を記して先生になったらしいです。


孔明の軍勢の付近は,関羽と張飛などの強い武将のいる劉備の軍が強かった。 孔明の軍も幾つかの街を支配するが取ったり取られたりだったので劉備軍と合流することにする。 孔明の軍の君主は「孔明は頭がいい」と宣伝して自分が君主にならないことと引き換えに孔明を軍師にしてもらう。


交換条件は,あくまでも一説であって実際には,劉備が「軍勢が多いから」という理由で押し切った可能性があります。


孔明は,中国の様子を調べて荊州の牧である劉表の寿命が短いことを知って荊州をとることを考える。 劉表は,表向きは孔明に国を治めてくれるように頼んで他界するが劉表の子らに裏切られて曹操に敗北して南下します。 裏切られた理由としては,君主である劉備が劉表の死を喜んだからという理由でした。 劉表が死亡すると劉備は,街に繰り出し「愉快!愉快!」と喜んでいたそうです。 また,劉表の子らは,自分達の能力を見極められなかったら裏切れと命じられていたらしいです。 劉備がクソ野郎だと判明した後,孔明は,関羽に劉備軍を続けるべきか止めるべきか判断を委ねます。 迷った関羽は,孔明に質問をぶつけます。 「何を考えているか?」と。 その質問に対して孔明は「中国を豊かにしたい」と答えます。 その答えを聞いた関羽は「継続」と答える。 孔明は,荊州にはしっかりした劉表の子らがいるので諦めて南下することにします。


荊州と徐州は,入れ替わっている説があります。



劉表は,領土にいる人材を探し出して自分の後継者にしていたらしい。


孔明は「何故?戦うか?」を考えていました。 「全ての君主が中国の繁栄を目指しているかもしれない」と考えてよその君主や軍師と文通します。 それが発覚して幹部会議になりますが孔明は,理解を得られませんでした。 劉備は,それを真似して文通しますが内容は,相手を愚弄するような内容でした。 「ここまでおいでベロベロバー!」みないな内容だったらしいです。 おそらく張飛あたりに「挑発すればいい」と言われて書いたのだと思われます。 張飛は,戦がなくなるとやることがなくなって不都合だったのです。 孔明は,理解してましたが何も言いませんでした。 ただ,曹操がムキになって戦いを挑んでくることが嫌だったらしいです。


◇◇◇ 第二章 汝南攻防戦と孔明最大の計略 ◇◇◇


孔明の軍が汝南まで南下した時に趙雲は「ここが自分の故郷だ!」と言います。 そこでも激しい戦闘があって汝南は,ほとんど取られました。 孔明は,新野まで下って体制を整えます。 新野の君主は,快く迎えてくれて「お金を全て自由に使っていい」と言ってくれます。 孔明は,お金の半分を汝南の身代金にして曹操に「攻めないでくれ!」と頼みます。 それでも怒っているので劉備に「これは作戦だ」と言いくるめて曹操に差し出し,なんとか怒りは,収まります。


趙雲は,南下した時に遭ったという説と孔明の君主が挙兵した頃から軍にいたという説があります。



新野の君主は「孔明は,中国を豊かにしようと考えている」という話を聞いて「お金を自由に使っていい」と言ったのだと思います。


孔明がお金を送金してくれたことを知らなかった汝南の人は,勢力が強い曹操に付いてしまいます。

孔明の元の君主は,暇でやることがなかったので諸国の情報を入手するために文通するよう進言します。 その時の名前に「劉備軍の副王」を使うことを提案しました。

曹操に送金しましたが新野は,他勢力から攻められてしまいます。 それらに対応していたある日,陳武という武将が「一騎打ちで勝った」と言ってきます。 その後も度々「勝った」と言ってきました。 その武将は,あまり身長が高い方ではなく,力もあるとは言えない方でした。 それでも一騎打ちで勝っているということは「技術がある」と孔明は考えました。 そこでその技術を兵士に教えてもらうために訓練所を設置して陳武に師範になってもらいました。


その当時の一騎打ちは,腕に自信のある人が前に出て戦っていました。 陳武も自分から名乗りでて戦いました。 よく勝つので褒美を欲しかったのだと思います。 孔明は,理解していたので師範になった時に給料を高くしてやったらしいです。



訓練は,全く新しいアイデアで他勢力はやってませんでした。 また,訓練をしているという情報が漏れないように気を遣っていたようです。


訓練所で訓練すると上達する兵士がでてきます。 上達した兵士は,新規に訓練所を設置してそこの師範になってもらいました。 そうして訓練された兵士は,増えていきました。 ある時の戦で「何人倒せるか?」を調査したところ,平均10人以上倒せるようでした。 但し,敵にも強い人がいて最後まで残るので苦労した話をしたところ「優秀な兵士を休ませておいて最後に残った強い兵士を叩く」という戦術を考案しました。 結局,通常の訓練兵士は,10人倒したら退却していいことにしました。 この数は,小国でも大国を相手に戦うことが可能であることを意味します。 そして孔明の反撃が始まるのでした。 まず,汝南を取り返し同様に訓練所を設置して力を蓄えて北上を決意します。 その後,汝南の人達は,孔明がお金を出してくれたことを知ることになるのでした。


孔明の軍は,人数が少ないので食料も給金も少しで維持できました。 進撃する時の食料部隊も少数で可能でした。 但し,他勢力が兵士に給金を渡していたかどうかは不明です。

また,陥落させた都市で兵士を募集するのですが少数しか採用しませんでした。 このことを偵察に来た人は「劉備の軍は,魅力がない」と報告したらしいです。



孔明は,汝南を少数で攻め落としましたがそのことを汝南のある武将は「舐めているのか?」と発言します。 孔明は,汝南が強い武将が多いことを知っていたのでいつもより多めに兵士を出撃させてました。 また,陥落していて言う台詞でもありません。 武将が分けの分からないことを発言しているわけですが孔明は,それが「治るかもしれない」と考えて人間のことを研究する「人間衆」を設置します。 その部隊は,後に大活躍することになります。



◇◇◇ 第三章 最強軍団出陣せよ! ~ 許昌を落とせ ◇◇◇


新野と汝南の訓練が終わると孔明は,許昌への進撃を命令しました。 新野から3000と汝南からは,守備を任せていた関羽と張飛の部隊の2000が出陣して曹操軍の主力37500を倒しました。 新野が心配なので2000の兵士を返します。 関羽と張飛の部隊も1000の兵士を汝南に返し,残った兵士で訓練のやり方を指導してもらいました。 許昌には,陳武と趙雲と副王を呼びました。 孔明は,捕らえた敵武将に「故郷を守りたければ仲間になれ!」と言います。 寝返らなかった武将は,曹操軍に帰ることを許しました。 ただ,帰還すると曹操に「使えない奴は,いらない」と言われて曹操軍を首になります。 結局,許昌に帰ってきて孔明の軍に入ることになりました。 許昌には,献帝がいましたが若かったので殺しませんでした。 妃は,曹操の娘でした。 そこで曹操を倒して娘がいつでも遭えるようにしようと考えました。


元曹操配下の武将は「劉備軍は,武将が少ないから殺されなかった」と発言しました。 陳武は,それが気に入らなかったので仲間になった元曹操配下の武将に兵を与えないで畑を耕せました。 それを知った孔明は,曹操の軍と遭遇しない南を守らせることを提案します。 兵を与えない代わりに連弩を与えて活躍してもらいました。 元曹操配下の連弩兵は,兵士達に大人気でした。


戦後処理が終わると自分は,新野へ帰りました。 新野は,江夏から攻められたようで「お客さん来てました」と報告されます。 出陣前に「お客さんの対応」と「海からの訪問者に備えること」を命じておきましたが完璧にこなしていました。 江夏は,新野で情報集めをしている可能性があるので危険だと感じて即,進撃しました。 兵士を蓄えている可能性があるので新野から3000と張飛の部隊を呼んで攻めました。 途中まで順調でしたが江夏では,攻城戦になりました。 敵軍は,食料を城に運んで長期戦の構えだったので包囲して食料供給を絶つ作戦をとりました。 すると江夏の城の門が空き,一人の男が剣を置いて降伏宣言をしました。 計略を疑って君主にも出て来てもらいましたが「全て任せている」とのことだったので1000の兵士を残して帰還させます。 1000の兵士には,許昌と同じことを命じました。

その後,関羽と張飛には,2000の兵士で寿春侵攻を命じます。 これで汝南のとりあえずの敵勢力は,いなくなりました。

  汝南 → 小沛侵攻

小沛(荊州)には,しっかりした人材がいましたが曹操は,繁栄させる力がなかったので攻めることにしました。 孔明は,劉表の子らにその地域を治めるよう命じます。 但し,敵武将だったので良い返事をもらえませんでした。 弟も使える人材でしたが「自分の演技がばれたら自殺する」と考えていました。 孔明は「国を治めるために自分が必要な人材だと考えていれば自殺しないはず」と考えて演技であることを指摘しますが自殺してしまいます。 兄は,孔明を恨んで従わずに怒っていました。 結局,別の人達を雇って内政を進めることにしました。 その人達も劉表の子らに世話になった者達だったので当初は,表向きだけ命令を聞いていましたが孔明と話して孔明の政治を理解していきます。 内政が進んで国が繁栄すると兄も従うことを誓って孔明に会いますが孔明は,その兄の態度と考え方が面倒くさくなって「自殺しておけ!」と命じます。 結局,兄も自殺してしまいます。

孔明は「繁栄とは何か?」を考えていました。 繁栄とは,おいしい食べ物をたくさん,食べられることです。 学問所に通っていた頃は「サツマイモ」以外は,ありませんでした。 「これしかないのか?」と思ったそうです。 そこで諸国を廻って「何を食べているか?」を調べてもらうことにしました。 調査ができたら幹部を集めて宴会を開いていろいろな食べ物を食してもらいながらそれぞれの国に広めてもらうことにしました。

ある時,関羽の嫁が「何かすることはないか?」と名乗り出ました。 そこで「応援」をお願いしました。 兵士の嫁達は,陣太鼓で応援することにしましたがある時,大きな戦になったので「逃げて欲しい」と言ったら関羽の嫁だけ逃げずに応援して捕まりました。 結局,逃がしてもらったのですがそれを反省して食べ物を料理してもらうことを考案しました。 劉備軍の食事は,勝利した時は豪華な料理で敗北した時はサツマイモになりました。 また,客人が訪問してきた時も豪華な料理を振る舞いました。

軍隊の食事は,保存と輸送に適切なサツマイモでしたが不評でした。 そこで通常の豪華な料理にしました。 捕虜や投降した兵士にも振る舞いました。 このことは,人から人へと語られていくことになります。

その当時の街は,他の地域から武将がやってくることが多かったらしいです。 主に引き抜きや偵察です。 孔明は,酒場で料理を出すことを考案します。 やってきた武将は,街で劉備軍が豪華な料理を食べていることを知ることになりました。

劉備軍に士官すると豪華な料理を食べられるので大勢が押し寄せました。 また,孔明は,他勢力からの武将の引き抜きも積極的でした。 次第に他勢力は,もぬけの空になっていきました。 孔明は,豪華な料理にそこまでの効果があるとは思っていませんでした。


ある時,関羽は,わざと曹操に捕まって「客人が来ているのにサツマイモしか出さないのか?」と怒ったというエピソードがあるらしい。


「何故,他国の君主が国を繁栄させなかったか?」という謎がありますが余裕がなくて考えていなかったらしいです。 都市を取ったり取られたりなので守備で手一杯で繁栄まで考えられなかったようです。 また「何故,他国が真似しなかったか?」ですが徹底的に秘密を守らせたことと副王の計略が効果的だったことが理由らしいです。

副王は「他の君主は,何を考えているか?」を孔明に問います。 それに対して「自分の国を守ること」と答えます。 その後「食べ物では,自分の国を守れない」という手紙を諸国に出していたらしいです。 それにより,他勢力の食べ物は,いつまでたっても「サツマイモ」のみで他勢力の武将は,君主を見限って押し寄せた人もいました。

孔明は,訓練所の師範の陳武に「効果のない訓練」を提案して押し寄せた武将に習わせました。 また,食べ物の作り方も秘密にしました。 武将達は,いつまで経っても秘密を知ることができず,そうこうしている内に自国が攻められて陥落するのでした。


この時の「効果のない訓練」が太極拳の元になった可能性があります。



◇◇◇ 第四章 拡大する戦線と馬鹿らしい戦い ◇◇◇


劉備の軍では,走ることが得意な人を兵士に雇用した軍がありました。 そこで隣町が攻められている時に駆け付ける「脱兎兵」が考案されました。 許昌の西の街が苑から攻撃されて脱兎兵の出陣を要請しますが趙雲は拒否します。 それを聞いた孔明は「訓練所のことがばれる」と思い,訓練途中でもいいので苑に侵攻するよう命じます。 戦後処理は,新野から1000の兵士を苑に出しました。

苑の訓練が完了すると新野からの1000の兵士で上庸の攻略が提案されますが孔明は却下します。 それをやると故郷の新野に帰還する時期が更に伸びるからでした。 結局,苑から2000の兵士を出して攻略することになります。

孔明は,その土地の出身者のみ訓練しました。 他国の出身者は,スパイの可能性があるからです。 但し,味方になると有利になることを理解している人もいたので訓練したことがあります(孔明以外の人の判断かもしれません) 上庸の武将でした。 帰還して仲間になる前に上康で訓練したらしく一筋縄では落せませんでした。 彼は「孔明を呼べ!」と言ってきました。 孔明は「孔明が行くと仲間になると言うのだろう」と思いましたが面倒なので大軍団を結成して攻めました。 その後,その武将は,牢獄に入れられて約1年,牢獄生活になりました。

また,南の方のどこかの都市で故郷を偽って紛れ込む輩もいました。 そこで孔明は,情報漏洩を恐れて手紙の検閲を始めます。 敵勢力に手紙を出す場合は,全て検閲して時には,偽の手紙を持たせて情報漏洩の対策をしました。

寿春は,広陵攻略を目指してました。

  寿春 → 広陵侵攻

広陵からは,スパイが送り込まれていましたが手紙の検閲により危険は回避され,広陵は難なく落とせました。 但し,孫権の領土だったので孫権は,怒って度々,侵攻してきました。 孔明の軍は,関羽を派遣して対応しますがしつこかったので川向こうの建業を落として交渉する方法を提案します。 訓練の完了している江夏から2000の兵士を送り込んで建業を落とし「川を渡るなら更に侵攻する。渡らないなら建業を返す。」と交渉して成功します。

  江夏 → 廣江侵攻

江夏には,廣江侵攻を命じますが廣江は,劉璋兄弟の片方(たぶん,兄)が治めていて守備が必要な都市が二つになるという理由で江夏は拒否します。 江夏は,廣江に借りがあるので攻めたくなかったのです。 また,廣江の城主は,劉璋兄に「出世させてもらった」という恩があるわけです。 江夏は,廣江を説得する時間を稼いでいたのですがなかなか上手く説得できませんでした。 孔明は,それを察知して江夏に兵糧戦を提案します。 江夏は,それならと実行して陥落させます。

許昌には,陳留攻めを命じますが手紙でなかったので北上と伝えられました。 これは,後にちょうどいい時期に洛陽に到着することになります。

許昌から陳留は,かなりの距離があります。 強気で攻めてもいいのですが敵軍がローテーションしてくると疲れが溜まってしまいます。 そこで趙雲に50の兵を任せて裏側に回って相手の補給部隊を潰してもらいました。 敵軍は,飯抜きで戦わなくはならないので力が出ずに味方は,楽に進軍できました。 ただ,完全に潰すには,人数が足りなかったのであと50の兵士を追加要請しますが拒否されます。 孔明は,拒否した指揮官を攻城戦の号令のみにして司令官は別の人に任せます。 この人は,後に班長と呼ばれるタイプの人で優秀でした。 戦略を良く理解して趙雲の50の追加要請を通します。 但し,その後に敵軍にばれてしまって趙雲の隊は,全滅して帰還します。 それに対して兵士を1000に増やして敵軍の補給部隊の殲滅を計ります。 その後,曹操軍は,侵攻してこなくなり,孔明の軍の得意な攻城戦になります。

  許昌 → 陳留侵攻
  小沛 → かひ侵攻
  小沛 → 濮陽侵攻
  かひ → 北海侵攻

北海に侵攻すると森がありました。 中国には,木が生えていない不毛の地が多かったので孔明は,木を植えて実りのある土地にすることを考えます。 のこぎりや斧がないのでとりあえず,木の枝を切って他の地域に売ることを提案します。 北海は,使える人材がいなかったので他の地域から呼んで整備してもらいますが実際には,他の地域で情報集めまたは士官していたらしく,後に「自分の故郷に帰る」ように命じると使える人材が戻って来たらしい。

濮陽と陳留は,連携していて片方を攻めるともう片方が出陣してくるので両方の兵士を相手にする必要がありました。 孔明は,小沛の兵士に2連戦になることを告げて3000の兵士を連れて濮陽を目指しました。 濮陽は,敵の兵士数が少ないので油断して応援を呼ばなかったので簡単に陥落しました。 それを聞いて陳留から16000の兵士が出陣しますがその陳留は,許昌からの3000の兵士に落とされ,出陣した敵軍は,都市と都市の間で立ち往生してしまいます。 両方の都市から孔明の軍が3000ずつ出陣したので敵軍は,二手に分かれて戦いますが敗北します。


濮陽攻めの時に小沛の兵士は,自分達が敵の10倍の強さになっていることを知りませんでした。 7~8人を倒せる技の練習をしましたが一部のエリート兵しか習得してませんでした。 また「孔明は,計略が使える」と説明されていました。 20000+20000の城に対して3000の兵で出陣するし,戦場に到着すると孔明は,計略が使えるはずが「俺,弱いから後方で戦う」と言われるし大変だったらしいです。 戦闘後に小沛の班長が話してくれたので訓練の責任者に文句の手紙を書くと「そうゆう意味じゃない」と返事が返ってきたらしいです。


濮陽近辺は,小国がひしめいていました。 小国の一人の武将が「孔明の傘下に入りたい」と申し出ました。 その武将は,劉表の子らが自殺した件に気にして「どうしたら首にならないか?」と聞いてきます。 それに対して小沛の役人は「自分の国を繁栄させることを考えていれば怒られない」と教えました。 結局,劉表の子らは「強い意志をもって国を繁栄させようとしてなかった」と考えられたわけです。 武将は,それを聞いて帰郷します。

その武将の国は,飛び地でした。 孔明は,濮陽を攻略した後,すぐに飛び地に1000の兵士を送りました。 「途中,攻められたら反撃するように」と命じて送り出しました。 その武将の国は,3000の兵士しかいませんでした。 連絡されてなかった武将は,慌てて戦闘モードになりましたが門の前まで侵攻するとその兵士が「孔明の使いだ!」と言ったので安心しました。 その後,その手前の都市も濮陽からの兵士により,陥落しました。 武将の国は,海からの侵攻に注意するだけになりました。

孔明の国には,学校制度があって能力によってコースがあったらしいです。 一つ目は,頭が良いだけで戦闘が苦手な人のコースで通常の学問を教えていました。 二つ目は,頭が良くで戦闘も得意な人のコースで学問所と訓練所を行ったり来たりします。 三つ目は,戦闘が得意な人のコースで戦闘訓練だけします。 どちらも出来ない人は,畑を耕すように命じられます。

卒業すると文官になったり,商業に就いたり,軍隊に編入されたりします。 戦闘コースの人は,戦闘訓練の他に畑を耕したり,料理を仕込まれ,落とした国の人達に教えます。 学問所と訓練所のコースの人は,落とした国の運営を任されます。 ある程度,軌道に乗ったら帰郷が許されました。


孔明の軍は,戦闘に参加すると一時金を貰えました。 大物の武将を倒したり,使い手を倒すと一時金がアップしました。 また,占領軍(国を落とした後に教える軍)は,帰還する時に少し多めに一時金を貰えました。


孔明は,通常,陥落させた国の君主をそのまま登用する方針でした。 その後は,いろいろな食べ物の作り方と兵士の訓練方法を教えました。 つまり,孔明の軍に攻められると敗北してその後においしい食べ物を食べられて自分の国を守れる方法を教えてもらえるわけです。 後から考えると馬鹿らしい戦いでした。


馬鹿らしいことを理解して国のために「訓練のことは,君主に伝えない」と考えた人が多くいましたが中には,理解しないで教えようとした人もいるので秘密にする必要がありました。



◇◇◇ 第五章 曹操の捕縛 ~ 鉄器を活用せよ! ◇◇◇


濮陽を出た孔明の軍が洛陽を落とすとそこに北上してきた副王と趙雲がやってきた。 洛陽の研究所には,のこぎりや斧などの鉄器で作る道具と鉄鉱石から鉄を作る技術,砂鉄から道具を作る技術などがあったので副王と趙雲の軍の半分に鉄器を広めるよう命じました。 彼らは,それぞれ自分の国に帰還して鉄に関する商売を始めました。 木が多かった北海では,制作されたのこぎりや斧を購入して材木の商売で繁盛しました。

孔明の話ではないのですが問屋は,中国人が考案したらしいです。 中国では,産業が発達して物の輸送の需要が高まりました。 そこで運搬の専門家を配置しました。 これが「問屋」の始まりというわけです。

「問屋」は,近くは手間がかからないので安く,遠くは手間がかかるので高い値段で売りましたが田舎の人は,遠くの大きな街まで行くと安かったのでたまに休んで大きな街に出向いてまとめて買い物してました。 それを見たある人が「全て同じ値段にすること」を提案して近くも遠くも同じ値段になりました。 つまり,その方式をとっている国は,どの街に住んでも同じになります。


日本の場合は,大きな街に行かないと無い物もあるので大きな街の方が便利だと思われています。 但し,今後は,ネットショップの時代なので街の違いは,大きな違いにならない可能性もあります。 あとは,公園や施設の充実度が課題になるのだと思います。



鉄器や木の家,家具などは,以前からあったのですが魔法で作成されたものでした。 孔明は,人間の手で作るよう指示したわけです。 後に家や家具なども人間の手で作るようになりました。


また,いくつかの都市に天才的な武将がいたのでそれらの武将に「政治を少し下の人に任せて洛陽に来い」と命じて研究または全体の政治を任せることにしました。

副王と趙雲の残り半分の兵士は,曹操の捕縛を命じられ成功します。 曹操は,木製タイヤの付いている檻で許昌まで輸送されて娘に会えるようになります。 曹操は「娘が殺された」と思っていたので大いに驚きました。 その後,献帝は洛陽に移動になりますがダダをコネて帰ってしまいます。 よく言い聞かされて再度,洛陽入りを果たします。

副王と趙雲の部隊は,西涼の馬騰が治める地区の攻略を命じられます。 全ての都市が陥落すると馬騰は「俺を殺してくれ!」と頼みます。 孔明は「変な奴」と思って切ります。 馬騰は「陥落しても殺されない」と知っていて試したのですが孔明は,考えるのが面倒なので切りました。

袁紹は,河北に勢力を伸ばしていました。 孔明は,張飛と関羽に北の袁紹攻めを命じますが従わずに部下に行かせました。 袁紹は,元から負けることも負けて得することも知っていたので戦うふりをしました。

北側の領地を全て獲得した後,孔明は「国名を魏にする」と宣言します。 「国名が魏なら曹操に襲撃されない」と思ったらしい。 孔明は,各武将に「故郷に帰って故郷のために働け」と命じます。


孔明は,北の方で藤の鎧に油を付けることを提案して火をつけたというエピソードがあります。



やることが無くなった張飛は,酒を飲み歩いていました。 ある日,軍を首になり,仕方なく農業をやっていました。 そこに役人が「仕事がある」と言ってきたのでその仕事をこなしていくと太守に任命されました。 太守は,人気のある人にやってもらうことになったらしいです。


洛陽は,天才的な武将に任せました。 武将は,各地域からお金を献上させて洛陽の都市開発を進めて手本にしました。 洛陽に各地域から文官を出向させて学ばせ約2年で国に返す制度を整えて故郷の都市を開発させました。


天才的な武将は,孔明に聞きました。 「自分の国を優先して新しい物を採用していいか?」と。 孔明は「それぞれの国が全く同じである必要はない。特色があった方が面白い。」と答えました。 それ以降,それぞれの役人が「これがいい」と思ったことを故郷に展開するようになりました。 その後,ある州で実施された「街によって特産物を変える政策」が一般的になっていきました。



◇◇◇ 第六章 もう一人の劉備と中国統一 ◇◇◇


孔明は揚子江の南に向かって「川を渡らないが攻めてきたら侵攻する」と宣言して新野の守りを固めます。 南は,孫権と劉璋兄弟が治めていました。 劉璋は,廣江を取られたので憤慨して侵攻してきました。 広陵と同様に川を渡って都市を一つ陥落させて「川を渡るなら侵攻する」と宣言しますが無視されたので侵攻することにします。 孔明は,食料の補給線を心配して陳武の軍を送りますが「大丈夫」とのことだったの更に西の劉璋弟の国に侵攻することにします。 兄の国は,本拠地まで陥落して「川を渡らない」と約束させられました。 弟の国は,川の北の漢中も治めていたので陳武は「漢中をよこせ!」と侵攻して川の南側の城を落しまくりました。 ある程度,侵攻したところで良い返事をもらえたので撤収しました。 全ては,部下の部隊が実行したことでした。 孔明は「そうゆう獲り方もあるんだ」と感心しました。


真面目な陳武が「何故,そんな人になってしまったか?」ですが良く考えたら孔明は,面白いことがある度に陳武に手紙を書いていてそれが原因らしいです。


孫権は「劉備がどんな人物か?」を確認したかったので自国に呼びますが話するとクソ野郎だと理解しました。 孔明に「殺していいか?」と言ったところ,承認されたので山に埋めましたが劉璋には,そのことを教えました。 劉璋は「同じ劉一族なので」ということで狼に食われそうだったところを助け出しますが話をすると理解して失敗だったことを知ります。

劉備がいなくなったので副王が「劉備」を名乗ることにしました。 新劉備は,献帝から「王」の称号をもらい,本物の劉備は「偽劉備」とされました。

孔明の部下は,南の君主達に「陥落しても君主や太守,城主は殺されないこと」「劉備・孔明の軍は,はるかに繁栄していること」などの情報を教えます。 それを聞いた劉璋は,一度,面会することにします。 新野にやってきた劉璋らは,宮中料理でもてなされ,はるかに繁栄していることを知らされます。


この時に宮中料理の側で舞っていたのが大喬・小喬姉妹でした。 この二人は,オーディションで合格した人で後に孫権に見初められて孫権の国に行きます。 大喬は,孫権と結婚しますが「孔明に従うこと」という条件を付けられて承諾します。 その後,孫権は「骨抜き状態」になっていきます。


後に南の者達は,孔明の能力を知ったらしく,下に付くことにしました。 そして中国は,統一されたのです。


南の国にも調練に気が付いて進言する人がいましたが内容が分からないと言ったら捕まってしまいます。 これが孔明の軍との決定的な差だと言えるでしょう。 但し,この人は,元々の孔明の軍の武将の一人で作戦でした。 落ちた後に開放してやったそうです。 孔明に命令されたと勘違いして怒っていました。



ある時,曹操の元部下が孔明に「私達は,何を間違えたか?」と質問します。 それに対して孔明は「答えは二つ。一つは,私を新野で殺さなかったこと。もう一つは,私に時間を与えたこと。」と答えました。 曹操は,新野の手前まで侵攻したが孔明を見逃したのです。 また,その後,考える時間と新野近辺で小さな戦闘の機会を与えてしまったことを曹操の失敗と答えました。 あと一つあるとすると曹操の失敗ではありませんが「提案の採用」だったと言えるでしょう。


その後,孔明は,モンゴルに侵攻して制圧し,移動可能な家やチーズ料理,客人に対する礼儀,剣技,馬術などを教えます。 また「たまに来てくれ」と言い残しました。 モンゴル人は,これを律儀に実行してたまに侵攻してきて「誰の国か?」と聞いてきます。 時が経つと中国側は,中国統一の話がそれまくって全く別の話になってしまいます。 そしてモンゴル人に国を治めてもらうことになります。 また,度々,襲撃してくるので「万里の長城」を造ってしまいます。 気が付いた時は,手遅れでした。


モンゴルは,孔明が欧州に移住している最中に来襲しました。 孔明は「シルクロード近辺は,ある程度,進めてあるのでインドより西を頼む」と返事したのでモンゴルの大帝国が建国されました。




◇◇◇ 第七章 外国使節団とクンフーへの道 ◇◇◇


ある時,孔明は,外国に人を派遣して調査させました。 その武将が帰還すると国名は「魏」になっていましたが孔明の説明を聞いて安心します。 外国にいろいろな食べ物があったと報告されて見聞録を書くよう命じられます。 「食べ物の章」と「見聞録の章」を読んだ孔明は,苦労したことを知り,その武将の給金を最高額に設定します。 その本は,中国の上層部に広められて外国に使節団を派遣することが提案されます。

インドには,香辛料があったので使節団を派遣して種子を入手して育て方を学ばせ帰還させて中国に広めてもらいました。 西には,ローマ帝国がありましたが見聞録の武将は,途中で盗賊にお金を取られたらしいです。 孔明は,訓練を受けた兵士を送り出して西にある種子を入手させます。 珍しい土壌でないと育たない種子もありましたが研究して栽培に成功します。

ローマ帝国からは「豚さん」も数組,輸入して繁殖させました。 檻にタイヤを付けた馬車で輸送しました。

インドからは「インド象」も輸送しました。 インド象の輸入は,船の輸送も考えられましたが陸を歩かせることになりました。 麻雀の牌の材料に「インド象の象牙」が必要だったからです。 野生の象を狩ってもらった方が安いのですが若い象か年寄の象か分かりません。 若い象を狩ると繁殖できなくなり,絶滅の恐れがあります。 従って象を年寄になるまで飼育して老衰で死んでから象牙を採取する方法が考えられました。 但し,象さんは,かなり食べるので大変でした。

麻雀牌は,貴重なので個人で持つことを禁止して雀荘を設置しました。 麻雀に夢中になる人が大勢いたので雀荘は,休日のみの営業にしました。


中国の上層部は,農作物と香辛料の種類が増えたので料理を研究してもらうことにします。 すると料理の種類がかなり増えました。 新メニューは,宮中で振る舞うことにしていたのですがその量が半端ない状態になりました。 役人達は,真面目に「自分の故郷に展開する良い料理がないか?」と思って参加するのですがあまりにも料理が多すぎて腹も一杯で何がいいか考えられませんでした。 その料理は,コースになって現在も存在するらしいです。 平和な中国のエピソードでした。


盗賊の話を聞いた孔明は興味を持ちます。 新野にいた頃に新野と汝南の間の森に盗賊がいましたが孔明は,討伐せずに理由を聞きました。 孔明は「悪いことをする人が現れるのは,その国の政治が悪い」と思っていました。 理由を聞くと「身体の大きな人は,兵士になれるがそうでない自分達は,やることがないと思ったから」という理由でした。 孔明らが畑仕事を教えると盗賊は,真面目に働くようになりました。

孔明は,外国の盗賊も「何か理由がある」と思い,洛陽を治めている武将と相談して解決するための使節団を送ります。 使節団は,戦って勝利すると盗賊をやっている理由を聞きました。 すると「不毛の地だから」という理由を話してくれました。 使節団は,その地域にある物を訪ねますが「燃える空気」くらいしかありませんでした。 それは,使える物でしたが「将来的に役に立つ」と説明しました。 更に近辺を探索すると鉄鉱石が見つかりました。 「ローマ帝国と交易して食べ物と交換できる」と教えます。 その後もその地域の人にいろいろ教えて国らしくなるとローマ帝国に組み込まれることになりました。

その後,使節団を送るとまた盗賊が襲ってきました。 使節団は,油断していて兵士を混ぜていなかったのでやられました。 また,良く分からない理由だと思います。

その後もインドとは,交易を続けていました。 インドと中国の間の交易路は「シルクロード」と呼ばれました。 中国は,その周辺の地域の国と都市を整備しました。 それは,更に拡大して広い地域を整備することになりました。 つまり,東アジアから東南アジア付近で中国にお世話になってない国はないと思われます。 中国は,アジアの盟主なのです。

しかし,原住民しか住んでないような地域では,弓矢で射られることもありました。 また,中国では,ある程度,運動した方が身体にいいと考えるようになり,訓練所の人(陳武かもしれません)が考案した棒術を学ばせることにしました。 これが「クンフー」の元になったと考えられます。 後にローマ帝国への使節団には「クンフーの達人」を同行させることになりました。 ローマ帝国内では,模擬戦が行われて「クンフー」はローマ帝国でも大人気になりました。


孔明は,ローマ帝国に「カレンダー」や「西暦」があることを知って青くなったらしいです。 また「水道」の情報が入ると「負けた」と思ったらしいです。



中国には「英雄がいた方がいい」と考えられて関羽や張飛の活躍は,大々的に宣伝されました。 但し,かなり誇大されていたらしいです。 また,時代が経つとかなり編集されて様々な説が飛び交うようになりました。 「本当は,どうだったか?」は謎のままなのです。



◇◇◇ 番外編 孔明の用兵術 ◇◇◇


孔明は,陳武に命じて兵士を訓練させますが上達する人とそれなりの人がいました。 小柄で普通の体型の人は上達して身体が大きくて力がありそうな人はそれなりでした。 倒せる相手の数は,普通の体型の人が約15人でそれなりの人が約7人でした。 孔明は「強弩」を提案しますが力がある人が必要でした。 力がある人は,白兵戦があまり得意でなかったので筋トレで更に筋力を鍛えて強弩兵になってもらいました。


孔明の軍の兵士は,剣を背中に差す「忍者タイプ」でした。 白兵隊は,右の背中に剣を差してその後ろにアンクレットの入った袋を背負っていました。 強弩兵は,右の背中に矢を左の背中に剣を差してその後ろにカバーをかけた盾を背負っていました。 強弩兵は,剣の位置が逆だったので街の人に「大したことない」と舐められましたが戦闘では勝利するので不思議がられました。 弓兵なので矢が右で白兵戦は稀なので剣が左だったのです。



孔明は,城の中に藁人形を配置させて外から矢を射かけさせて「どの位の割合で当たるか?」を実際に実験して知っていました。 更に偵察を出して予め,敵城の兵数を知っていたので「一人当り何本の矢を持たせ,何本の矢を射ればいいか?」を計算して実行していました。 この話から「10万本の矢」の話が創作されたものと思われます。 また,初めの頃は,敵の矢を回収しながら矢を射っていたのですが当たってしまうことがあったので回収は,戦闘終了後にしました。 また,孔明の軍は,戦闘終了後に墓穴を掘って敵も味方も葬ってやったそうです。


更に弱い人は,補給部隊の護衛を任せました。 強弩は「軍事機密」として補給部隊に運ばせました。 良く守ってくれたらしいです。

それ以外に「投石器」や「衝車」も考案しました。 それらの機械類の工作が好きなタイプがいたのでそれらの人に任せました。 工場戦の時は「投石器」が一番狙われやすいので中央に配置してエリート兵(約30人クラス)に守らせました。 「投石器」に近づく人は,全て切るように言いつけました。 「戦闘中は,無関係の人は投石器に近寄らない」という軍律ができました。


インダス王・テッケンさんは,生前にエリート兵と素手で戦ったことがありますが一発のパンチで慣れられたのは,初めてだったと証言してました。 テッケンさんを抜きにして語ると最強になるらしいです。


また,ある時は,あるタイプの人が燃える砂,すなわち「火薬」を教えてくれました。 「火薬」は,城門を壊したい時に使用することにしました。 「何があるか?」を探すのが好きなタイプだったので偵察させることにします。 戦闘の時は,梯子で城内を偵察する担当にしました。

城門に仕込んだ「火薬」に着火する人も不可欠でした。 全員に弓を教えて特に正確に射られる人を「火つけ隊」としました。

城が陥落しそうになると後方から「連絡係」が飛び出します。 連絡されると援軍が来たり,作戦がバレて不利になるので足の速い人を配置して連絡を潰してもらうことにしました。 逆に作戦上「連絡係」を通すこともありました。 攻城戦の前に「潰すか通すか?」を指示するようにしました。

白兵戦の訓練は,概ね「隙を突く」という練習でしたがあまりにも強いと乱戦の中で弓矢を射られる場合がありました。 孔明軍の兵士は,左手に小型の盾(後に「アンクレット」という名称になった)を付ける案を提案して飛んできた矢を正確に当てる練習もしました。 また,弓矢を構えている人を先に倒す戦術と飛んでいく矢を剣で払い落とす練習などもやりました。

攻城戦は,

  投石器
   ↓
  強弩兵
   ↓
  偵 察
   ↓
  火 薬
   ↓
  火つけ
   ↓
  衝 車
   ↓
  白兵隊

の順で指揮官の号令に従って行われました。


孔明の軍は,造作もなく城を陥落させました。 落された側は「普通,城は落ちない」と驚いたらしいです。


途中で敵兵が城から出て来て白兵戦になる場合は「強弩兵が城門付近に矢を射る」「白兵隊は引き付けて戦う」という掟の元に戦いました。 そうしないと同士討ちになってしまいます。 それらを理解できる人で命令通りに動ける人だけを雇いました。


孔明は「白兵戦と攻城戦でどちらが得意か?」と聞かれると白兵戦と答えます。 攻城戦は,過去に自分の采配の手際が悪くて兵士に苦労させた経験があるから苦手意識がありました。 逆に白兵隊は,圧倒的な強さを誇るので信頼しているらしいです。 最大戦闘力と負傷率は,ほぼ互角のようで戦闘成績は(相手の出方次第ですが)白兵隊の方が勝ってます。 (孔明の軍の攻城戦は,全く負傷者が出ないと考えられていますが実際には,突入の時に多少,負傷者がでます)



ある指揮官が強弩兵が城門付近に矢を射ると敵軍が怪我人だらけになったことを見て「治療してやれば~」と思ってある戦いの時に実行しました。 それを見た城主は「そうゆう人なら殺されない」と思って投降しました。 「治療の計」は,労せずして城を一つ,陥落させたことになります。


戦闘が終わった後の報告や評価なども徹底してました。 報告書には,練度の項目があり,三点になると大きな戦に参加できました。 領内の小城は,兵士の訓練が完了した後に練度を上げるためにわざと落とさないで残しておきました。

ある時,頭の良い城主が守っている城がありました。 そこに練度の低い部隊を出撃させました。 頭の良い城主に対しては「こっちも頭の良いところを見せてやれ!」という命令でした。 そこで城を囲んで兵糧戦で更に連絡係を足止めしました。 何も動きがなく時が経ったので偽の宴会を開く作戦を思い付きます。 するとその隙を突いて敵方の連絡係が城から出ましたが夜目のきく人を配置しておいたので捕まえて城に帰ってもらいました。 時間と経つと投降するだろうと思っていたら隣の城から敵側の偵察がきました。 偵察は,切りましたが時間が経過して帰還しないと敵側の大軍が来ることが考えらました。 油断していた部隊は,いきなりピンチになり,上層部会議をしました。 頭の切れる人を混ぜてあるので案が出ました。 夜襲で速攻で城を落として敵側の援軍を迎え撃つ電撃作戦でした。 城を落としている内に味方の援軍を呼ぶことも決定しました。 また,城主が降参するまで本物の酒を飲まないように命じます。 城に突入すると白旗を上げたので宴会が始まりましたが味方側は,酒を一滴も飲まずに酔ったフリをしました。 城主の降参の意向を聞いた後に本当に酒を飲み始めました。

その後,敵側の援軍が来る前に矢を回収して準備を整え,味方の援軍と合流して迎え撃ち,勝利します。 その勢いのまま,隣の城まで進軍して陥落させましたが戦闘後の報告書の部隊表の特殊部隊の欄に「夜目」と「酔っ払い担当」と書き込んでありました。 上手だったのだと思いますが孔明は「なんだそれ!」と思ったらしいです。 部隊は,二度と油断することなく,また,部隊の練度も最高の3に上がりました。 その後,孔明の軍の中に酔ったフリをする兵士が登場します。 これが酔拳の始まりだと思います。


味方同士が合流する場合や連絡する場合に腕のアンクレットを見せ合うというのが孔明の軍の挨拶でこの時の合流時もやったそうです。


小さい村では,若者が軍隊に編入されると畑を耕す人がいなくなってしまいます。 そこで孔明は「体力作りをする必要がある」として週に2~3日は,兵士に農作業をやらせました。 これは,老兵の黄忠さんの村から始まりました。 尚,黄忠さんが一人で守っている城に関羽一人で行かせた話は,本当のことらしい。


中国の南方で「虎を軍隊に入れること」が考案されました。 但し,虎は,敵と味方の区別が付かないので採用すると大変なことになります。 組織は,稀に変な提案がされますが上層部が分かってないと変な案を採用してしまう危険性があります。 つまり,全体的におかしくなるのは,上層部が「分かってないから」というわけです。 組織の上層部には,分かっている人が不可欠です。



「何故,他の勢力は,調練を真似しなかったか?」という疑問についてですが
まず,君主が分からない事は,実行されなかったからです。 劉備の軍は,全て孔明に任せていたので孔明が分かる事なら実行されました。 また,孔明も各武将にほとんど任せる事もありました。 「下の者に任せる」という概念があったわけです。 次に重宝されていた武将が力任せの人が多かったから。 通常,力持ちの人を頼りにしていて戦闘技術という概念が無かったのです。 つまり,調練のやり方が分からなかったからです。



◇◇◇ まとめ 群雄割拠と繁栄しない国 ◇◇◇


中国の帝は,黄巾賊が現れた時に討伐した人に褒美として土地を授けます。 各地の有力者は,それぞれよその地域に侵攻します。 初めの内は「帝から授かった土地」に侵攻することは掟破りでしたが次第にいい加減になって「群雄割拠」の時代に突入していきます。 有力者は,自分の土地を守ることで精一杯になり,繁栄や発展とは無縁になりました。 武力がある者が必ずしも繁栄させることが出来るとは限らないのです。 そこに天才的な軍師・孔明が登場するわけです。


孔明の名字は「諸葛」または「諸葛亮」と言いますがこれは,孔明が中国に「人口を増やせ」と命じたからです。 (亮は,ミドルネームで『亮さん』と呼ばれることもあったらしいです) 人口が増えて識別ができなくなったので家族毎に同じ名字を付ける案が考案されました。 ローマ帝国に視察に行った時にその話をしたので欧州もそれに倣いました。 但し,欧州側は「ミドルネーム」も追加で考案しました。 従って欧州側には「ミドルネーム」があるわけです(中国の上層部もミドルネームがある人も存在した) 因みに「諸葛」は,嫁が付けたものらしいです。

初めの名前は「ファーストネーム」真ん中の名前は「ミドルネーム」最後尾の名前は「ファミリーネーム」というそうです。


孔明は,部下や領民に提案してもらうことがありました。 ニンジンや大根は,領民が地面に生えていた物を報告したものです。 また,使える報告があった場合は,褒美(一時給金)を与えていました。 案の採用も孔明の重要な戦略だったと言えるでしょう。

三国志は,いろいろな創作がされてきたという歴史があるので本当の話をしても逆に疑われる場合があります。 計略を使って敵を鮮やかに倒す話が好まれるのでそれらの話が盛られている場合が多いのです。 そんな時,インダス王・孔明は,こう言うそうです。

 「あなたの話(知っている話)も本当だとする根拠がないでしょう」

国を上げて偽情報を流していた時代もあるので昔のことが書いてある本やら何やらが見つかることがありますが嘘でないという根拠がありません。 つまり,創作なのか本当の話なのか本当に見せている嘘なのか?真実は闇の中なのです。 全ての話は,50対50なのです。


日本の歴史の場合は「悪者がヒーロー」に「ヒーローが悪人」になってます。 80歳(2020年時)くらいの人と話をすると評価が全く異なるので驚かされます。 ある年代から異なる情報を教えられているのだと思いますが先輩と歴史の話をすることもないのでほとんど気が付きません。 部活の前に「信長がさ~」とか話しませんよね。 従って変更になっても気が付かないのです。 また「古い時代なので間違っていた。新しい方が正しい。」と言っておけばそれまでです。 つまり,歴史の捏造は,比較的簡単に可能なのです。



◇◇◇ 付録 キングダムの話 ◇◇◇


・5巻:「伍長の澤圭(たくけい)さん」の弱い者の作戦

キングダム5巻から登場する「伍長の澤圭(たくけい)さん」の5人ががりで相手と対峙する作戦ですがみんながこれを実行して敵兵を(一つの伍で)5人ずつ倒せば勝ちです。 但し,強い武将を誰が倒すか?が問題になりますが...

・5巻:何故,河了貂(かりょうてん)にきゆう鳴の生き残りと教えなかったか?

信は,山の民に「テンは,きゆう鳴の生き残り」と教えてもらったが「テンには,言わなかったのが何故なのか?」このことは,後の方で説明するらしいが「何故,後になったのか?」が疑問です。 また「きゆう鳴は,山の民と激しい戦闘を繰り広げた」となってますが山の民が無反応だったことも疑問です。

・8巻:投降した趙兵40万人を生埋めにした「長平の戦い」は白起の判断ミスだと思う

但し,それがないと話自体が成り立たないのだが... 私だったらあっちこっちの国の特攻させて強い人だけ残るようにします(悪魔^^)

・8巻:太后は政が呂不韋(りょふい)の子であることを知っていたはず?

趙にいた頃に太后は,政が呂不韋の子であることを知っていたはずだが「何故,言わなかったか?」です。 これを言ったら趙の邯鄲で嫌がらせをされなかったはずです。 秦の国王の子としておけば将来的に太后になれるという野望をこの頃から持っていたのかもしれません。

・8巻:政は趙を脱出できたがその後,太后はどうなったのか?

謎です。

・9巻:幽族の連は本物の蚩尤(しゆう)ではないと思う

本来なら象が蚩尤になるはずだったが連は,掟を破って象を倒したので本物の蚩尤ではないと思う。 また,羌瘣(きょうかい)が連と戦って勝ってもどうかと思います。 更に「蚩尤の婆さんらは,いったい何者なのか?」という謎が残ります。

・16巻:王騎は何故,龐煖(ほうけん)にトドメを刺さなかったか?

初めの戦いのことですが摎(きょう)が殺されて我を忘れていたからです。 結局,2度目の戦いで魏加(ぎか)の弓矢で一瞬スキが出来て龐煖に負けるわけです。 非常に残念な死でした。 できれば2人の戦いに割って入って欲しくなかったです。

* 死んだはずなのに生きてるとか反則に近いです。

・16巻:摎(きょう)は王族だった

摎は,秦の王の子で政は,呂不韋の子なので本来は,摎が実権を握るところです。 また,後の巻で楊端和(ようたんわ)と姉妹という件があるので楊端和にも継承権があるのか?です。

・17巻:呂不韋は李牧(りぼく)の首の値を誤った

李牧は,後々まで秦に大ダメージを与えるので同盟を結ばずに殺しておくべきだった。 但し,李牧は,武力もあるので簡単に倒せる相手ではないので実際に殺すことも出来なかったはずです(後に信の一撃を受け流された) また,趙は,クソ王だったはずだが「何故,李牧が仕えているか?」が謎です。

・23巻:信は貂(てん)が女だと気が付いてなくて確認する

気が付かないはずないんだが...キングダムギャグ面白いですね。

・23巻:貂は昌平君の特別軍師認可をもらっている

凄いです。特別な子なんですね。 河了貂の指揮,いいですね。 やっとらしくなってきました。

* 軍師は「予め,どのくらいの死人がでるか?が分かっていて送り出す」と言ってました。
* 辛いところですね。

・包帯は無かったと思う

負傷した兵士に包帯がまかれてますがあの時代には,無かったと思います。

・次第に弱くなっていくはずだが...

戦闘を繰り返すと将軍や武将がいなくなるし,熟練された兵も減っていくだろうし,素人兵ばかりになる恐れもありますがそうならないのは,リアルでないと思います。


◇◇◇ 最後に ◇◇◇

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