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タイトル:進化と歴史のページ

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移動日:2018年07月12日
更新日:2024年03月27日
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◇◇◇ はじめに ◇◇◇


自分達の時代の歴史の時間は,初めに先生が「正しいと考えられている歴史を教えます」と宣言してました。 つまり「本当の事は,分からないけどたぶん,正しいだろうと考えられている内容を教えます」と言っているわけです。 歴史は,常に新しい発見や研究がされていて更新されてます。 古い時代の記録などから推理するしかないわけですがその記録もそれぞれが勝ってなことを書いている場合があります。 時の権力者サイドの人が書いている記録を一応の正史としてますが権力者にとって都合の良いように書かれているようでAとBの記録の内容が異なっていたり,矛盾したりする場合もあります。 何が正しいのかは,学者の間でも議論の最中で様々な説が飛び交っている状態です。 また,演劇や演武の為の物語として創作されたものと正史を混同している場合も多々あります。 このページでは,学のない私が考えた歴史を中心に紹介してます。 あくまでも創造の範疇という事で予め御了承下さい。


◇◇◇ 進化と歴史 ◇◇◇


【キリンの首はなぜ長くなったか?】

キリンの首は,だんだん長くなったと言われています。 短い首のキリンが存在して生存競争に負けて絶滅していったとされてます。 まず,首の短いキリンの群れがいてその中にたまたま首の長い奇形キリンが生まれました。 そのキリンの子孫も遺伝子を受け継いで長くなり,長い首のキリンと短い首のキリンが共存してましたが首の短いキリンは餌がなくなって絶滅し,首の長いキリンだけが生き残ったわけです。 これが繰り返されてかなり長い首のキリンになったわけです。 但し,途中のキリンの化石が発見されてないそうです。

【竜(ドラゴン)とは何か?】

中国から伝わったもので「竜の骨が出る」という話があるそうです。 「昔,竜がいた」というわけですがどうやら恐竜の骨のことらしいです。 つまり「竜=恐竜」というわけです。

【ライバルはネアンデルタール人】

「我々,ホモ・サピエンスよりネアンデルタール人の方が脳が大きかったので頭が良かった。 そして筋骨隆々の理想的なハンターだったにもかかわらず絶滅したことが歴史上の謎である。」
という話を聞きました。

確かに謎ですが学者に言わせるとIQは,脳の大きさによって決まるわけではなく,脳みそのしわの数によって決まるそうです。 そうじゃないと恐竜やクジラの方が頭がいいことになってしまいます。 ネアンデルタール人は,我々ホモ・サピエンスより脳が大きかったのですがしわが少なくてIQは低かった可能性があるわけです。 その証拠にホモ・サピエンスの使用していた道具は,時代と共に進化してます。 また,ネアンデルタール人よりホモ・サピエンスの方がIQの個体差が大きい可能性もあります。 それにいち早く気が付いて集団生活をしていたのかもしれません。 頭の良い人がリーダーになっていろいろ教えたり,広めたりすると文明的な生活を送れるようになります。 また,絶滅の危機を乗り越えられる可能性もあります。 そうして勢力を伸ばしていったのかもしれません。

【人類は何故,マンモスを追ったのか?~4つの疑問~】

人類は,アフリカを出てアジアからマンモスを追って北に向かって北アメリカに渡るわけですがいくつかの疑問があります。

一つ目は「マンモスを食べられるか?」ですが現代で一番近いのが像です。 これを食べるのでしょうか? かなり鋭利な刃物がないと解体は無理でしょう。 当時の道具で可能だったかどうか疑問があります。

二つ目は「マンモスを狩れるか?」ですがマンモスはかなり巨大な怪獣です。 まず,これを狩って食べようと考えるかです。 そして実際に当時の道具で倒せたか?という疑問があります。

三つめは,当時の針が見つかりました。 服を作っていたようですがこの針の作成には,相当の時間がかかります。 狩猟をしないで作成に時間をかけたことになりますがその間の食料はどうしたか?が疑問になってきます。

四つ目は,当のマンモスは氷河時代に何を食べてあの巨体を維持していたか?という疑問があります。

五つ目は,トナカイ(またはその仲間)もいたのに何故,マンモスを狩ったのか?です。

これらの疑問から導き出される答えは「当時の生き物は,食料を食べてなかった」となります。 また,人類は,マンモスを追っていたわけではなくだたの偶然かもしれません。

【ツタンカーメンの墓】

ネフェルティティの墓を守るように置かれた件についてですがツタンカーメンは「足が悪かったので王と認められなかった」ということらしいです。 そのため,自分の墓ではなくネフェルティティの墓に埋葬されたらしいです。

ツタンカーメンは,墓を造ってもらいましたが反対があってそこには,埋葬されませんでした。 可哀想なのでネフェルティティの墓に埋葬したそうです。 また,古い時代に権力争いで負けて野に下った王の弟の家系の宰相がいてそれも可哀想そうだったのでちょうど空いていたツタンカーメンの墓に埋葬したそうです。

更に代々の王の妃は,名前を変えた同一人物だったらしいです。 エジプトの生活に飽きたので東南アジアの発展途上国にいたそうですが商隊に買ってもらって三国志時代の中国に行って孔明に買われたそうです。 その人物は,中国では,黄夫人と名乗ったそうです。

【古事記は物語である】

日本の天皇陛下は,天照大神の子孫なので日本を収める王である根拠になってますがそれらの人物が登場する「古事記」は,その時代に語られていた物語らしいです。 従って天皇陛下が日本を収める王である根拠もその出自も出鱈目というわけです。 現在の日本は,全てキチンと代表を決めたりしますが昔になるといい加減なので初代の神武天皇は,単に「村にいたそれなりの人」という可能性もあります。 そしてそれ以前の系譜は,勿論,分かってません。

【前方後円墳】

前方後円墳は「誰かが言い出したもの」でその時代に流行ったらしいです。 四角の古墳と円状の古墳が受け継がれていって「それを足してしまおう」と考えたのかもしれません。 埴輪は,その人が生前に行ったことを再現したものらしいです。

古墳の大きさは,活躍の度合ではなく,クラスによるものと思われます。 活躍しなくてもクラスが上なら大きな古墳にしたのだと思います。 つまり,仁徳天皇陵は「活躍しなかった人の可能性」もあります。

【始皇帝時代の弩について】

始皇帝時代の「弩」は,訓練しないでも精度が高く威力もあったそうです。 「弩」があったので孔明の時代に「兵士を訓練する」という概念がなかったのかもしれません。

【天下三分の計について】

広い地域を支配すると頭のいい人がたくさん見つかり,いろいろと考えてくれた物が広まるので豊かになることが考えらえます。 但し,何処に行っても同じなので面白さに欠けるという欠点があります。 それに対して複数の国がある状態にしておくと遠出した時に違った世界を感じられるので楽しくなります。 というわけで結局,三ヵ国に落ち着いたらしいです。 これを「天下三分の計」と言います。

【邪馬台国はヤマト王権のことである】

魏志倭人伝に「邪馬台国という国があった」と書かれているがこれは「ヤマト王権」のことではないかと考えられます。 魏志倭人伝には,魏の国までの道程が記されていて逆に辿っていくと邪馬台国の位置が判明するはずですがその位置は海上になってしまいます。 これは「なるべく遠くから来たと言っておけば魏の国の王が喜ぶから」という理由で適当に道程が遠かったように言えと命令されていたらしい。

さて腑に落ちないのは幾内の鉄器の出土が少ない件ですが邪馬台国の人々は「鉄器を嫌っていた」ようです。 理由としては,自分達の技術にプライドを持っていたからです。 鉄器は,大陸から伝えられたもので自分達の技術ではなかったので嫌う人が多かったのです。 鉄器の出土が少ない理由は,そこに高度な文明を持ったプライドの高い人々の国があったからです。 鉄器が少ない事が逆にそこに国があったことの証拠になるわけです。

卑弥呼は,推古天皇のことらしいです。 江戸時代の歴史学者が卑弥呼に推古天皇の名前を付けたらしいです。 しかし,卑弥呼は3世紀の人で推古天皇は7世紀の人なので時代が異なります。 この謎には,複数の答えがあるそうです。


魏志倭人伝の頃は,ヤマト王権は富士山付近にあった可能性があります。 その後,畿内に移動したようです。 金印を落とした件については,当時は日本に試験制度がなかったので適当な人が選ばれた。 その人がちょっとそそっかしい人だったという事らしいです。


【孔明の名前は二つある】

孔明には,名前が二つあります。 本名である「諸葛孔明」とフルネームの「諸葛亮孔明」です。 亮という字は愛称で「諸葛の亮さん」といった感じで使われていたらしいです。 有名大学だと「二つある」と教えていましたが三流大学だと「諸葛孔明」の方だけ教えているようです。

自分は,語呂がいいかなと思ってフルネームの「諸葛亮孔明」を使ってました。 それを聞いた三流大学生が「それは違う」と凄い勢いで言ってきて揉めたことがありました。 そもそも三流大学なのに「大学で教えてくれるものが絶対」と考えるのは盲目的で危険です。 大学生が既成概念に囚われていて高卒の人に迷惑をかけたというわけで話になりません。

有名大学なら揉めなかったことを考えると騒いだ相手が単に「恥をかいた」というわけです。 また,自分が高卒ということで強気で言い張ってきたようですが有名大学の人にレクチャーされている場合もあるので一概に馬鹿にできないものです。

【遣唐使】

遣唐使は,長旅なので干した米や柿などの保存食を食べていました。 風向きが丁度,良い時期に出発すると航海期間は,最長の1/4程度(約4日)でした。 遣唐使の船は,荒波に対応した障壁を持っていました。 それらの造船技術は,遣唐使が中国で習ったものでした。 その為,遣唐使の成功率は,行き92%,帰り76%とその当時では高い成功率でした。

その他,平城京や平安京も中国の真似をしたものでした。 日本に無かった茄子やみかん,ひしお(醤油の元)なども持ち帰りました。

滞在費は,皇帝にもらいました。 その当時の中国は,絹がお金の代わりでした。 通常の遣唐使の滞在期間は,1年くらいですが留学生は,20年くらいでした。 留学生の場合は,次の便に乗れなかったら20年後になるので人生をかけた大仕事だったらしいです。

仕事内容は,書物を入手して持ち帰ることでした。 書物は,手書きで高価でした。 絹で代金を払い,寺院で書き写してましたが足りなくて墓誌を書くアルバイトしてました。 当時の中国では,墓誌が流行してましたが文字を書ける人が少なったようで丁度,良いアルバイトでした。 墓誌を書ける人は,認められていた人で貴族や知識人のサロンに出入して本の情報を入手していたらしいです。 中には,恋愛小説などもあり,後の世に影響を与えました。

こうして持ち帰った書物や技術を元にして「大宝律令」が制定されたり「仏教」が広まり「大仏」が建立されて新しい時代を迎えました。 遣唐使らは,唐で出版されている本の半分を持ち帰りました。 その数は,1万6000冊以上になり「ブックロード(長安~平城京)」とも呼ばれます。

一方では,大陸から天然痘ももたらされて流行しました。 当時の人口の3割りが死亡しました。 天然痘は「鬼」と呼ばれ死者が増えると田畑が荒れました。 九州では,反乱が起きて大混乱に陥りました。

遣唐使逹は,神社を建立して唐から持ち帰った神「牛頭天皇」を祀りました。

唐の書物を教科書にして人材を育成したり,墾田永年私財法を制定して荒れた国土の復興を目指しました。 それまで大皿料理(大きな皿で出される料理)がありましたが感染症対策で小皿にしました。

また,漢字がひらがなやカタカナに進化して源氏物語や枕草子などが書かれました。

その後,日漢貿易が始まって遣唐使は,役割を終えました。

【草なぎの剣】

古い時代は,全て「青銅の剣」で剣の形をしてますが刃が付いてなくて斬るわけではく主に叩いていたらしいです。 そこにある人が現れて鉄で剣を作って刃を付けたわけですがその時代には,1振りしか作られませんでした。 その剣は,軽く振っただけで草がパラパラと切れるので「草なぎの剣」と呼ばれました。

同じ剣は,かなり後(たぶん,室町時代頃)になってから大量に作られるようになりました。 つまり,江戸時代などに作られた「日本刀」は,全て「草なぎの剣」になるわけです。

【京の五条の橋の上】

「京の五条の橋の上」の話は,五大老のテッケンさんと私がその時代にタイムリープさせられた時の話らしいです。 テッケンさんと私は,その時代にしては変わった服装をしていたのでゴツい武人らしき人に絡まれました。 その時,テッケンさんは,力任せに刀を振り回す武人相手に木刀で応戦しました。 テッケンさんは,すばしっこかったので武人の刀をヒラリヒラリとかわして戦っていました。 それを見た義経らしき人が武人の方に「仲間にならないか?」と声をかけたわけです。 その話がいつの間にか義経と弁慶の話にすり替わって今に至ります。 この戦いの時に不利な木刀で対等以上に戦っていたテッケンさんの方が力は上だと思いますが義経は,弁慶らしき人の方に目を付けました(因みにテッケンさんは,余裕で遊んでいたらしいです) つまり,義経らしき人は「正しい判断ができない人である可能性がある」というわけです。

【義経の鵯越の逆落し ~ 一の谷の戦い】

義経が鹿が崖を降りていく様をみて「馬でも可能のはずだ」と思って馬で降って平家を急襲する話ですがまず,他の武将だったという説があります。 そこは,義経だったということで話を進めます。

逆落しが有効な手段だったかという話ですが
問題は,義経が運動神経が良かったので降りられたとして配下の武将も同じ様に馬を操れるかということです。 まず,無理です。 そうなると体重500キロの馬と人間が10数メートル(たぶんそのくらいの高さ)から落ちるので相当の音がします。 つまり「油断しているところに急襲」とはならず,バレていて「待ち構えていたところに降りてきた」となります。 更に戦う前に数騎が落ちて使えない状態になっています。 それなら正面から堂々と向かって行ってた方が良かったくらいです。 つまり「下策だったのではないか?」というわけです。

組織のリーダーとしても兵を失う可能性のある戦法をとることはどうなのかと思います。


実際には「崖」ではなく,ある程度の下り坂だったそうです。 「鹿が崖を降りていく様子を見て思いついた」というのも創作のようです。 また,義経ではなく,他の武将だったらしいです。 義経らは,平地で平家の陣地を挟み込むように戦っていてその隙に他の武将が山側から急襲したという話らしいです。 その作戦は「義経が発案した」となっているので「義経の鵯超の逆落し」と伝わっているらしいですがこれも眉唾な話だと思います。


【歴史はまだ決定されてない】

歴史は,よく新しい発見があると更新されてます。 まだ,決定されてないわけです。 学校で教えている内容も変更される可能性が十分,考えられます。

特に有名なので鎌倉幕府の成立時期です。 これは,1192年ということで私達の頃は,はっきりと教科書に書いてありましたが最近では「諸説あって議論の最中」ということになってます。 あれほどはっきりと教えられた内容も「議論の最中」ということになっているので現在,決定されている内容もいつ議論の最中になるか分かりません。 歴史の全ては,まだ決定されてないのです。

・鎌倉幕府成立時期

  1180年 鎌倉に侍所設置「鎌倉の主」とされる
        南関東と東海道東部の実質支配
  1183年 朝廷から東国支配権の承認を受ける
  1184年 鎌倉に公文所(政所)と問注所を設ける
  1185年 守護・地頭の任命権などを獲得
  1190年 右近衛大将に就任
  1192年 征夷大将軍に就任


よその国の場合は,国民が混乱するので「確定している」と教えているかもしれません。


【義経はいい加減な男だった】

武士の棟梁は,荒っぽい人達を統率するので厳しくてしっかりした人でなくては務まりません。 つまり,源頼朝は,そうゆう人だったことが考えられます。 頼朝は,自分の許可なく貴族から官位を頂くことを禁じてました。 武士団の統率に関わるからだと思われます。 それに対して義経は,許可なく貴族から官位をもらいました。 頼朝と違って義経は,いい加減な人だったと考えられます。

因みに北の方は,蝦夷の国だったので鎌倉幕府の勢力が届かず,逃げ延びた可能性があります。 義経は,逃げた後に東北のある村でひっそりと暮らしていたという説があります。

【一時的に人が居なくなり征夷大将軍は敵と言っている件】  03.27文章追加

昔,老人に聞いた話なのですが栃木県は,一時的に人が居ない時期があって征夷大将軍は,敵なのだそうです。 そのことから栃木県民は,蝦夷の可能性があります。 更に話を聞くと今泉まで押し上げられてその後,室町時代に征夷大将軍の下のついて南下したそうです。 宇都宮氏の領土までは,北の人らしいです。 また,国名は,その時に「日の本」にした可能性があります。 今泉まで押し上げられた原因は,足利尊氏の東征によるものと思われます。

因みに足利尊氏は,江戸に住んでいたらしいです。 その当時の江戸は,東京から栃木の南くらいまでで南の方は,湿地帯で北に睨みを利かせる必要があったので栃木の南(足利学校付近)に住んでいたらしいです。 将軍様が江戸に住んでいたので昔は,その時代を江戸時代(前期)と言ったそうです。 その後の秀吉が関白になった南朝時代を経て家康の江戸時代(後期)になるわけです。

栃木の物の名称等  03.27追加

  御煮しめ → 煮物(足利氏が好きだったらしい)
  鬼殺し  → 日本酒
  鬼卸し  → 卸し金
  鬼怒川  → 足利氏が怒ったらしい。

その後,北からの侵攻に備えるために福島県(会津藩)に城をつくり,それなりに強い大名を配置したものと思われます。

さて「何所から蝦夷が出現したのか?」という謎ですが蝦夷は,大和の国と同じで古代イスラエルからの移民だと思われます。 井澤さん(神官で元の名前はイザヤ)は「南にもいるけど私達は北」と発言してます。 つまり,大陸からの移民は,南廻りと北廻りがいたのだと思われます。 大和の国の人々は,自分達が古代イスラエルの民であることを忘れて同胞である蝦夷を攻めていたというわけです。 「逆らったから」となってますが蝦夷にいきなり「下につけ」って言ったのだと思います。 それを断ったら「逆らった」となって征夷大将軍という職を設けたのだと思います。

頼朝は,蝦夷の出身だった可能性が高いです。 征夷大将軍の職を引き受けた理由は「自分が攻めなければいい」と考えたという説があります。 2年で解任になった理由は「バレたから」らしいです。 また,自分に無断で天皇から位などを貰ってはいけないとしました。 義経が追われた件は,見せしめまたは自作自演の可能性もあります。

いつの間にか「蝦夷は北海道」ということになりましたが良く考えると北海道はアイヌでまた別ですよね。


「大和魂は,西の方」とも言っています。


【マルコ・ポーロ~東方見聞録~】

マルコ・ポーロは,日本に来てません。 中国に滞在した時に噂を聞いて東方見聞録を書いたと思われます。

当時の日本(奥州)は,中国に金を輸出していて金の名産地であることがよく知られていたらしいです。 また,中尊寺金色堂も知られていました。 中国人は,黄金の国という認識だったが異国の地だったので眉唾な噂もあったらしいです。 マルコ・ポーロは,それらをまとめたのだと思われます。 日本という国名は,中国読みでは「ジパング」に近い発音になるらしいです。

マルコ・ポーロや中国の武将が日本に来なかった理由は「人肉を食らう」という噂があったからのようです。 金を輸出する代わりに攻めてこないで~という密約があったのかもしれません。

【モンゴル襲来】

昔,モンゴルから「友好関係を築こう。戦争は誰も望まない。」という書簡が届きましたが一般的には「脅している」と教えていますが本当にそうだったのか疑問があります。 「戦争を望まない」という文は,その時期,モンゴルは強大だったのであっちこっちで「モンゴルが攻めてくる」と噂されていたから書いたのかもしれません。 ちなみにこの書簡が届いたら私だったらまず,返事を書きます。 単に友好関係を築きたいのかもしれないのでまず返事をしてどうゆう友好関係なのか確認してそれが下に付けという事なら考えるという手順でも遅くないと考えます。

【桶狭間の戦い】

桶狭間の戦いは,永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦です。 今川義元が2万5千の大軍で率いて3~5千の尾張の織田信長に戦いを挑んだのですが逆に義元は,討ち取られてしまったという有名な合戦です。

義元は,貴族の真似をしたりして腑抜けな武将と言われていますが実際には違います。 義元は,戦国時代に50戦たたかって負けなしという無敵の軍団の統領です。 そうでなかったら戦になった時に2万5千の大軍は集まりません。 では何故,桶狭間で5千足らずの信長に討ち取られてしまったのか?という疑問が湧いてきます。

不幸な事にいくつかの条件が揃ってしまったらしいです。

まず,義元軍は,大勢なので複数の部隊に分けていました。 義元本人の部隊もその中の一つで数千人の部隊だったと考えられます。 今川軍全体では2万5千人いますが義元本人の部隊は,それほどいませんでした。 この部隊は,途中で他の部隊と一緒に城を攻撃してましたが先に攻撃を止めて先に進んでしまいました。 そして兜を脱いで休憩して他の部隊が追いついてくるのを待っていました。 そこに雨が降ってきました。 激しい雨が降るとちょっと離れた場所で味方が襲撃されていても音がかき消されてしまって状況か分かりません。 つまり,義元本隊は,敵陣の真ん中で孤立しているにも関わらず兜を抜いて休憩していたわけです。 そこを信長の部隊が急襲したのです。 義元の軍は,2万5千という大軍なので負けるはずが無いと思っていて士気もあまり高くありませんでした。 それに対して信長の軍は,圧倒的に少なく出陣の時から死にもの狂いで戦う覚悟ができていました。

これらが理由になりますが更に謎が深まります。
何故,百戦錬磨の義元軍がそんな下手を打ってしまったか?という謎です。 実は,義元軍をここまで大きな勢力にしたのは義元ではなく軍師の役割を担っていた雪斎だったのです。 その雪斎は,前の戦で戦死していて今川軍は,ただの烏合の衆だったのです。

【楽市楽座の謎】

信長は,城下で無料で商売をやらせましたが「何故,収入がないのに大勢の兵士を雇えたか?」ですが「楽市楽座」は,特定の城下町だけで他の地域は他の大名と同じだったのだそうです。 それでも商人からの税収は,微々たるもので国の収入のほとんどは,米を売ったお金だったらしいです。 更に戦争になった時は,商人がお金を出してくれたらしいです。 勢力下で御贔屓にしてもらっていて負けると商人達も不利になるので出してくれたそうです。

【武田騎馬隊】

武田の里は,山間部でアップダウンが激しく戦場に着くまでに疲れてしまいます。 そこで馬に乗って移動することが考えらえましたが木の枝が邪魔で上手く移動できませんでした。 なので荷物だけを馬に積んで武将が馬を引いて移動していたようです。 馬に乗って戦ったのは,平野部での戦闘の時だけと考えられます。

【武将は神輿だった】

どうやら武将は,神輿のようなものだったらしいです。 例えば織田信長の場合は,部下や森蘭丸のいう通りにしていたらしいです。 その根拠としては,妹のお市の方の嫁ぎ先を攻めたりしてました。 他の武将で「部下のいう通り」と発言していた人もいました。 アイデアや戦争の指揮なども本人の発言でない可能性もあります。

【旗持ちがやられると乱戦になる】

戦国時代の旗持ちは,数人に1人しかいなかったらしいです。 兵士は,通常,旗持ちのそばで戦っていますが旗持ちが倒されるとどの勢力か分からなくなります。 つまり,後半は,出鱈目に戦っていたと考えられます。 武田軍の「飯部虎昌(おぶとらまさ)」の隊は,勇猛だったので同士討ちになるとシャレにならないので識別できるように鎧を赤く染めていた可能性がある。 赤い鎧は「赤備え」と呼ばれて恐れられていましたが「飯部」の死後「山縣昌景(やまがたまさかげ)」が引き継ぎました。

【何故,東北は門松を飾らないか?】

家康は,竹を「武田」に見立てて袈裟(斜め)に斬りおとしました。 家康が伊達政宗に「門松を飾るように」と命じたのですが東北勢は,家康を嫌っていたらしく,政宗だけが従うフリをして飾りましたが彼以外の大名は,飾らなかったのでその名残です。

【失われたアークの箱は神輿になった】

失われたアークとは,ユダヤ人の三種の神器だったようです。 三種の神器は,120X80X80cm位の箱に入れられて下に棒を二本通して運ばれていたらしいです。 日本の神輿は,この形状に担ぎやすいように横棒を二本足したものとほとんど同じです。 ちなみに三種の神器は,日本にもありますよね。

古代イスラエルには,12部族が住んでいましたが3代目のソロモン王が亡くなった後,紀元前931年に北イスラエルと南ユダ国に分かれる。 北イスラエルには,10部族(ベニアミン族は重複)が南ユダ国には3部族が住んでいた。 北イスラエルは,紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまう。 住んでいた10部族は,離散して歴史から姿を消す。 これが失われた十部族である。

南ユダ王国は,紀元前586年にバビロン王国に滅ぼされてバビロン(現イラク)に連れていかれる。 これがバビロン捕囚です。 その後,バビロン王国が弱体化し2部族が帰還して国を再建する。 残った部族がユダ族だったことから「ユダヤ人」と呼ばれることになる。 その後,紀元70年にユダヤ王国は,ローマ軍によって滅ぼされ世界中に離散してしまう。 先に滅ぼされた失われた10部族の内の1つの部族が長い旅をして日本に辿り着いたという説がある。 滅ぼされた時に西は地中海,南は砂漠,北にはアッシリア帝国があったので進路を東にとったという説である。

当時のイスラエルには,神の声を聞いて民に教えるイザヤと呼ばれる預言者がいた。

預言者イザヤは,

 「東で神をあがめ,海沿いの国々においてイスラエルの神である王の名をあがめよ」と

と預言したとされている。

その預言通りに東に進路をとり日本まで辿り着いたと言われている。 辿り着いた地で自分達の風習を再現したので様々な痕跡があるのだと考えられる。 その一つが神輿ではないか?というわけである。


イスラエルから進路を東にとって中国の南の辺りから北上して中国の西の辺りで北上するグループと東に移動して更に海を渡るグループに分かれたらしいです。 その先には,モンゴルと日本があります。 この二つの民族が遺伝子的に近いことは,その説を裏付けていると言えるでしょう。


【何故,十字軍はいきなり攻撃をしたか?】

十字軍は,平和的交渉をしないでいきなり「奪還せよ!」と攻撃したわけですがその理由はキリスト教にありました。

キリスト教の聖書には,

「マタイ福音」10:14
あなたがたを迎え入れもせず,あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら,その家や町を出て行くとき,足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には,この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。
「マルコ福音」16:16
信じて洗礼を受ける者は救われるが,信じない者は滅びの宣告を受ける。
「ヨハネ福音」3:36
御子を信じる者は永遠を持つが,御子に聞き従わない者は,いのちを見ることがなく,神の怒りがその上にとどまる。
「ヨハネ福音」8:24
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると,わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば,あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
「第2テサロニケ」1:7
それは,主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時,主は神を認めない者たちや,わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し,そして,彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて,永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
「ヨハネの黙示録」
<未来のキリスト>の姿は,人々を,剣で殺して行ったり火と硫黄の中に投げ込んで行ったりする軍神「王の王」です。

とあります。

「自分たちの教えに反逆する者は,最終的に殺されて当然。神の目から見て正しい。」とする考えは新約聖書(キリスト教)の教えそのものです。 十字軍は「大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった」そうです。

フランスのある聖職者は,次のように記している。
「聖地エルサレムの大通りや広場には,アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。 まさに血の海だ。 しかし当然の報いだ。 長いあいだ冒涜をほしいままにしていたアラブの人間たちが汚したこの聖地を彼らの血で染めることを許したもう “神の裁き” は正しく賞賛すべきである」 イスラム兵士はもちろんのこと,老若男女を無差別に殺害したのである。 しかも,それは「神の名において」なされたのである。

これは,キリスト教を勘違いしたのではないかと思われます。 「ヨハネの黙示録」以外は,話を聞いてくれない民衆への恨み言ではないかと思われます。 フランスの聖職者は,勘違いをしていたと考えられます。

十字軍ですがイスラム側に先に侵略されて逆襲したわけですがやり過ぎではないかと思われます。 平和的に交渉したらまた違った可能性も考えられますがこれは平和な時代に平和な国に生まれた世代の考え方なのかもしれません。 また,神は「殺せ」と命令はしない。 するのは悪魔ではないか?と思われますがその時代の人は,平和的な思想を学ぶ機会がなく知識も乏しいので平和について判断できない状態にあったと言えるでしょう。 情報もほとんどなく異教徒を悪魔と考えていて疑わなかったようです。

聖書の編纂は,150年から225年頃となってますが頭の良い人が行ったという確証がありません。 「隣人を愛せよ!」と教えているようですがおそらく十字軍の問題があったから取って付けたのではないか?と考えられます。

・十字軍:追記

後の十字軍は,遠征を命令した人の故郷を襲撃したり,命令した人を暗殺したりしたという説があります。 十字軍は,実際にエルサレムに行ったのでイスラム系の王朝がキリスト教徒に対して寛大だった事やイスラム系民族が言われているほど蛮族でない事などの現状を知った。 また,上層部の既成概念により動かされている事や成功した場合に命令を下した人の手柄になる事などを知って反省し,同じ過ちを犯さないように次の世代の十字軍に伝えたのではないか?と思われます。


エルサレムでは,キリスト教とイスラム教は仲良くやってました。 そこへ十字軍がやって来てイスラム教徒を殺戮したのです。 つまり,キリスト教の子供の友達を殺したのです。


【何故?日本の学校制度はスムースに導入されたか?】

日本の学校というと江戸時代の寺子屋がありますがこれが「何故?スムースに導入されたか」ですが有効な本がたくさんあったからのようです。 それを読む為には,寺子屋で文字を勉強しなければならなかったからです。 現代は,テレビやラジオなどがありますが江戸時代には本のみでそれを読む為には勉強するしかなかったわけです。 現代風に書くと「学校に行かないとテレビで放送している情報番組などが分からなかった」というわけです。

【何故?江戸時代は改革を行っていたか?】

江戸時代は,寒い時代で天候不良でよく飢饉になるので改革を実施してました。 天候不良の原因は,太陽活動の衰弱と火山活動の活発化によるものです。 この時期を「小氷期」というそうです。

【忠臣蔵考察】

「松の廊下の刃傷事件」ですが普通は,家来のことを考えるとやらないです。 「浅野内匠頭」は「我慢の利かない身勝ってな人」ということになりますがこの事件は,かなり細かい設定がされていてかなり我慢が必要になってます。 例えば「浅野内匠頭」は,加治屋の頭ですが「大石内蔵助」は,それより上の位の天皇の宝物庫の次官になってます。

また,それぞれの藩の江戸屋敷には「江戸家老」がいます。 お金が出せないなら「予め言っておくことが出来なかったか?」という疑問があります。 そもそも幾重にも罠を張っていて合格したら認めるという試験をしていた可能性があるのでそれについては「適当に誤魔化しておいた」と考えられます。

罠を張っていた証拠としては,江戸時代260年間の間で350の家が断絶させられたからです。 いつも同じ方法だとバレて警戒されるのでいくつかの作戦があったのだと思います。 「忠臣蔵パターン」は,その中の一つだと考えられます。

試験をする理由としては「上に立つ人が優秀ならいくらでも稼げるので民の暮らしが楽になるから」です。 逆に無能だったら...というわけです。 国の繁栄の為なら交代してくれた方が民のためになるでしょう。 また,栄えている藩には,長年,君主に仕えてかなりの実績を上げたまじめで立派な老中がいますがそれ以上の出世がありませんでした。 一方では,使えない君主が国民を苦しめ,もう一方では,出世させてやりたい人がいるわけです。

「忠臣蔵」が有名になった理由としては「幕府の陰謀説が流れたからではないか?」と考えられます。 有名にすればその説は,消されます。 また,同じパターンを使った時に「事件を起こした方が正義という印象があるとやりやすいから」だと思います。

【苗字の話】

日本では,明治初期の1870年に平民が苗字を使用することが許可されました。 当時は,夫婦別姓が伝統だと考えられていて女性が結婚しても親からもらった姓を変える必要はなかった。 1898年に民法ができて強制的同姓制度になり,世帯主である戸主の姓に合わせることになった。

1870年に平民が苗字を使い始めるわけですが苗字を決める時に以前からあったものにした人もいるし,無かった人は,知り合いや近所の人,偉人などと同じ苗字にしたかもしれません。 以前からある苗字が継承された家ばかりではないことが考えられます。 また,以前からあった苗字を使っている人も頭が良いかどうか不明です。 というのも昔,偉かった人が必ずしも頭が良くて使える人だったという保証も証拠もないからです。 更に代を重ねているので子孫のIQが下がっていることも考えられます。

伊達さんは,大丈夫ですが藤原は,本物の犯罪者を知ってます(笑)

【第二次世界大戦とは何か?】

第二次世界大戦というのは,太平洋戦争も含めた世界大戦のことです。 日本では,太平洋戦争のことを「大東亜戦争」と呼んでいましたが戦後,アメリカにこの名称が禁止されたので後に「太平洋戦争」という名称が一般的になりました。 また,第二次世界大戦は「満州事変」や「日中戦争」を含む場合もあります。 因みに第二次世界大戦は,新しい用語らしく,その当時の人には,通じない場合もあります。

第二次世界大戦の原因としては「世界的に不景気だったから」と思います。

【異国の言葉は自動的に翻訳される】

異国の言葉は,自動翻訳されます。 この言葉の壁は,昔から問題になっていたので神または天使などの魔法で自動翻訳されるようにしたらしいです。 但し,自動翻訳が発動するには,ちょっとした条件をクリアしてないとならないらしいです。 因みに私の家に来た外国人は,みんな日本語をしゃべっているみたいでした。 「○○語,上手だね!」って言われるのですが私は,日本語をしゃべっているだけでした。

【世界史の有名人】

1.ジャンヌ・ダルク

農民の娘でフランスの英雄(または女傑)。 100年戦争の時にフランス軍を勇気付けて自ずからも出陣して活躍した。 その活躍が元でフランス軍は,活気付いて領土を取り戻せた。 今のフランスがあるのは,ジャンヌ・ダルクの活躍によるものである。

2.ジャン・バルジャン

パンを盗んで酷い刑を受けた人。 この人の話から刑は,罪の重さによって決める事が考えられた。 世界の国の現在の法律の罰則の元になっている。

3.ムッソリーニ

第二次世界大戦の時に日独伊同盟を結びましたがその時のイタリアの主相。

4.スターリン

ロシアの政治家。 ロシア革命(第2次)を押し進めた人。 第二次世界大戦では連合国の指導者の一人。


◇◇◇ リンク集 ◇◇◇


日本史 - Yahoo!知恵袋
世界史 - Yahoo!知恵袋
ナショナルジオグラフィック日本版サイト
ベネディクト地球歴史館

歴史の読み物
十字軍の暗黒史
十字軍
「東欧系ユダヤ人は250~420人が創始者」ゲノム解析で判明

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どうしたら豊かな歴史学を再構築できるのだろう。歴史に活気を取り戻せるのだろう


◇◇◇ あとがき ◇◇◇


・あとがき

忍者ホームページに移動しましたが登録初日は,ホームページの作成ができませんでした。
このサーバーは,1日1ツールという制限があって初日は登録のみになります。
あとFCやジオは,アップロード機能付きですが忍者はFTPソフトが必要になります。
FTPソフトは,FFFTPがお勧めです。
サーバ側の文字コードは「UTF-8」なのでそれを設定するだけで簡単にアップロードできます。

前回の更新の時に記事を追加したのですが確認できませんでした。
後で確認したら中途半端に表示されていて読めませんでした。
今回の更新で修正したので今度は,全文読めると思います。
更新の日付は,7月12日にさせて貰います m(_ _)m


◇◇◇ 最後に ◇◇◇

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